『包丁』の記憶

藤咲

藤咲

2020.04.26

 荒い息遣いが、耳の奥で木霊する。指先から全身へと、否応無しに突き刺さる、尖った棘のように鋭い感覚。その場にただ立っているだけだというのに、ずしりと重くのしかかる。

 なんだ、ここは。

 薄暗い。それに臭いだ。生臭くどろっとした、鼻につく臭いが辺りに充満し、思わず顔をしかめる。

 気持ちが悪い。鼻先の臭いを手で振り払いながら、その場で、身の回りに視線を巡らせた。どうやらどこかの部屋の一室に、自分はいるようだ。広い間取りと食卓用のテーブルがあることから、ここがリビングに相当する場所と分かる。

 そこで漸く、それまで聞こえていた息遣いが、己の口より出ていることに気付いた。ぐっと息を堪えつつ、同時に今見ているこの「記憶」が、先程のような温かなものでは無いことを改めて実感する。


 あの包丁を触ったことで、俺はここにいる。


 もう一度、記憶さがしのルールを頭に思い浮かべた。やはり、ここに散らばっているであろう記憶は、全て俺が過去に経験した記憶のはずだ。それに間違いはない。

 しかし俺はこの場所が何なのか、思い出すことができない。単純に、忘れているだけだというのか。何故。どうして。そんな疑問ばかりが頭に浮かぶ。自分の記憶だというのに、どうしても思い出すことができなかった。

 その場で立ちすくみ呆けていると、背中に衝撃。続いて強い痛みが走った。

「えっ。あ、痛…」

 突然のことだった。痛みを感じた箇所を反射的に手で抑えると、手にべっとりとした血がこびりついた。視線を背中側、下方に移す。そして目を大きく見開いた。自分の背中に、包丁が突き立っている。真っ赤な血がじんわりと染み出し、衣服が赤色に染まっていた。

 まさか。目線が上に戻せない。震えつつも、辛うじて見えるのは何者かの腕。その腕が持つ包丁の柄には見覚えがあった。間違いない、和室に置かれた箪笥で見つけた、つい先程自分が触れた「包丁」と同じもののようである。

「は、は…」

 この手や包丁についた真っ赤な血も、紛れもなくあの刃に塗れていた赤色と同じ。なるほど、これは、俺の体から出たもの。そう理解した途端、下半身の力が抜けた。その場に倒れる。痙攣したように、体がぴくぴくと微かに跳ね回る。

「ど、どうして」

 不意に聞こえる、嗄れた声。ああ、この声は俺のものだ。しかし今の自分のものでは無い。どうやら、この記憶の中の俺が発した声のようである。

「どう、してこんな」

 自分の意思に関係なく、弱々しく口が開き言葉を発する。が、出血量や傷の深さから、上手く声になっていなかった。

「こいつが、悪い」

 くぐもった声が、前方、高い位置より聞こえた。

 目を向けようにも、痛みから頭をその方向に向けることができない。しかし、どうやら俺を刺したのも、ひしひしと全身に伝わってくる負の感情を発しているのも、前に立った者が発端で間違いないようだ。

「こん——来た、こいつが」

 その人物は、何かを呟いている。痛みで意識が朦朧としており、上手く聞き取ることはできなかった。

「あああ!」

 その直後、前方より叫び声が上がった。

 死ぬ。そう思った瞬間、俺の意識は虚空に消えた。

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